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『万能人』レオナルド・ダ・ヴィンチ
広範な知識とスキルを目指すと、何にでも手を出すがゆえに「器用貧乏」にしかなれず大成しない……。というのは、ビジネスパーソンが「スペシャリスト(専門職)」を目指すか「ジェネラリスト(総合職)」を目指すか考えるとき、大きな懸念事項となるでしょう。
しかし、あなたは史上最高の「ジェネラリスト」の存在を忘れていませんか?絵画、科学、軍事、建築、演出、哲学……ありとあらゆる分野において類まれなる成果を出したその男の名は、レオナルド・ダ・ヴィンチ。『万能人』と称される彼を、果たして誰が「器用貧乏」と言えるでしょうか。
ここで「ダ・ヴィンチには才能があったから」と思考を止めてはいけません。彼が生涯を通してさまざまなスキルを習得してきた過程を見ると、現代の「ジェネラリスト」型ビジネスパーソンが学ぶべきポイントがいくつもあるのです。
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出典:http://meigen-ijin.com/leonardodavinci/
ミラノ、フィレンツェ、そしてフランスへ。67年の数奇な人生

まずはダ・ヴィンチの経歴について簡単に。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年〜1519年)は、代表作に『モナ・リザ』『最後の晩餐』などを持つ、イタリアのルネッサンス期を代表する画家です。
トスカナ地方のヴィンチ村で生まれ、フィレンツェの巨匠・ヴェロッキオの工房で修行。師の技を受け継ぎつつそれを上回る技法を習得し、その腕前はヴェロッキオに絵筆を折らせるほどだったといいます。
30歳ごろには工房を出てミラノへ。当時の有力者に仕え、音楽家や余興の演出家、軍事エンジニア、運河整備などさまざまな役割を担います。加えてミラノ時代には有名な『最後の晩餐』を完成させます。
47歳ごろにはイタリア戦争の勃発を受けて再度フィレンツェへ向かい、ミケランジェロとの競作(未完)や「モナ・リザ」の制作に着手。その後ミラノ・ローマを経て、64歳ごろフランスの宮廷に入り、ずっと続けていた解剖学や科学、哲学的研究に没頭しながらその生涯を終えます。
このように場所を転々としながらありとあらゆる分野に精通してきたダ・ヴィンチ。絵画だけではなくヘリコプターや戦車の発明、ミラノの水路開発、人体の仕組みの解明など、その功績を上げればキリがありません。では、ここからいよいよ、ダ・ヴィンチが『万能人』になれた理由を解説していきます。
1.身につけたスキルから横に展開していった
ダ・ヴィンチの最も特筆すべき特徴としてまず挙げられるのは、何よりもその「知識欲」です。ダ・ヴィンチは家の正式な子ではなく(非嫡出子)、十分な教育を受けることができませんでした。しかしそれゆえに、彼の「知」に対する欲求は凄まじく、あるひとつの分野を学んでいるときに違う分野にまで興味関心を持つほど。
青年期、ダ・ヴィンチがヴェロッキオの工房で解剖実習をして解剖学にのめり込んだのがよい例です。ヴェロッキオが工房で解剖実習をしたのは、本物の筋肉や骨格を見て作品に昇華させることでした。しかしダ・ヴィンチはそこからさらにのめり込み、内臓器官の機能を知りたいという医学的好奇心にまで発展していったのです。
さらにこの解剖学から発展して、ダ・ヴィンチは有名な「ウィトルウィウス的人体図」(真円と正方形に男性の手足が内接している図)を描き、「世界の中心は人間である」という哲学的考察まで進めます。「芸術」から始まった人体への興味は「医学」「哲学」まで派生していったのです。
このように、ダ・ヴィンチはひとつの分野を学習する中でも新たな分野への足がかりを見つけ、どんどんスキルを広げていきました。単なる器用貧乏にとどまらなかったのは、すでに一定の知見をその分野で身につけていたため。ひとつの専門領域を極めてさらに幅広い知識を持つ「T字型人材」の先駆けともいえるでしょう。
2.ニーズに合わせて自分のスキルを開発した
ダ・ヴィンチは若いころ、決して芸術家として評価されていたわけではありませんでした。当時のフィレンツェでは伝統を守る保守的な芸術が賞賛され、ダ・ヴィンチの革新的技法は評価されなかったのです。そのため、ダ・ヴィンチはフィレンツェからミラノへ「画家」ではなく「音楽家」という名目で派遣されました。さらにダ・ヴィンチにとって悪いことに、当時のミラノの権力者は芸術にあまり興味を示していませんでした。
そこでダ・ヴィンチは、その権力者に自分のことをアピールする手紙を書くとき、なんと「自分は軍事エンジニアだ」とアピールしたのです。
もちろん、彼はそれまで軍事に携わったことは一度もありません。にもかかわらず攻守両用の兵器や橋を作れることをアピールし、これまでの芸術活動については最後に1文付け加えるのみ。ここには、ダ・ヴィンチが芸術家として食べていけなければ軍事への転向も考えていた姿勢が見えます。
時代やクライアントのニーズに合わなければ新たなスキルを開拓するこの姿勢は、現代にも通じるものです。もし職種を変えてでも入りたいと思う会社があれば、それはチャレンジではありますが、新たな専門領域を作るチャンスでもあるはずです。
3.「転職」「複業」で、リスクを徹底的に避けた
前半で説明した通り、ダ・ヴィンチは仕える主人や住処を転々としていますが、それは徹底して「リスク」を避けたためでもあります。
フィレンツェで芸術家として難しいと感じたら、ミラノで余興の演出や音楽、軍事に携わる。ミラノで仕えていた主人が戦で倒され、次の政権で仕事がないと悟ったらすぐにフィレンツェへ戻る。ダ・ヴィンチは自分の活動を脅かすリスクに対して、非常に敏感でした。
ひとつの企業に尽くさず職場を転々とし、今の仕事で収入を得られなくなるときのリスクも考えて「複業」をする彼のスタイルは、まさに現代のビジネスパーソンのあり方に近いものがあります。むしろ、起業後20年で約5割の会社が潰れていることや、人工知能によって仕事が奪われることを考えると、今こそ必要なワークスタイルかもしれません。ダ・ヴィンチはリスクを避けるがゆえにさまざまな環境に飛び込み、その場に適応してきたのです。
4.自分の興味関心にひたすら素直だった
最後に、ダ・ヴィンチが広範な分野にもかかわらず、なぜ目覚ましいセンスを発揮できたのか考えていきましょう。実際、職を転々としてスキルの幅を広げるだけなら、器用貧乏になってしまう恐れも十分にありました。しかしダ・ヴィンチは器用貧乏では終わらなかったのです。それは、何より自分の興味関心に素直であり続けたため。
彼は晩年、大きな任務が約束されていたわけではないにもかかわらずローマに滞在しますが、それは当時のローマの教皇が錬金術に熱中していたためではないかと言われています。ダ・ヴィンチがヴェロッキオの工房時代から20年にもわたって研究し続けた、人体の仕組み。その成果を本にまとめるうえで、錬金術の知見はどうしてもほしいものだったのでしょう。
このようにダ・ヴィンチは生涯、自身の知的好奇心に素直だったのです。ときにはクライアントとなる主人も利用しながらも、ひたすらに知りたい・学びたいという好奇心でひたすらに勉強を続けました。その強い情熱があったために、どんな分野であっても専門性を発揮できたのです。
芸術に決して完成ということはない。途中で見切りをつけたものがあるだけだ。
出典:http://iyashitour.com/archives/24703
もしあなたが「器用貧乏」になることを恐れるならば、今学んでいる分野が「本当に好きなこと・学びたいこと」なのか今一度考えてみましょう。
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参考文献『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密』
