「枯山水」に代表される日本の魅力「引き算の美」とは?

6月は京都旅行に行きませんか?

6月は暑すぎず、京都を歩いて見てまわるのにはちょうどいい時期かもしれません。この時期の京都は花の季節で、沙羅の花(さら)、桔梗(ききょう)、紫陽花(あじさい)、花菖蒲(しょうぶ)、サツキや睡蓮(すいれん)などが楽しめます。

京都に行かたれことがある方は、龍安寺などの「枯山水」をご覧になったことがあると思います。時間が許せば、その前で、ぼーっと眺めていたくなりますよね。外国人観光客のファンも多いようなのですが、この「枯山水」の魅力はどんなところにあるのでしょうか。

土佐家伝来の秘伝

Tosa_Mitsunobu_001

狩野派と並ぶ日本画の二大流派で、日本古来の大和絵を発展させた土佐派に、土佐光起(とさ みつおき)という人がいました。

この人は、いっとき土佐派が絶えていた宮中や幕府の御用絵師、絵所預(えどころあずかり)を復活させた、土佐派中興の祖といわれている人物です。

この土佐光起が死の直前に、それまで口伝であった土佐家伝来の秘伝を書き残した『本朝画法大全』の中に、次のような言葉があります。

「白紙ももようのうちなれば、心にてふさぐべし」

これは「白紙さえ描写以上の描写とする日本独特の技法」を端的に表現したものです。

ヨーロッパの絵画はルネサンスから印象派まで、びっしり画面を埋めるの対して、日本の肖像画や大和絵の歴史は、しだい余白をもつようになっていったのです。

そして日本では省略の技法が発生して「引き算の美」というものが生まれました。

なぜこのような省略や引き算が発生したのでしょうか?

引き算の美

Kyoto-Ryoan-Ji_MG_4512

日本を代表する編集者、松岡正剛氏によれば、一つには中世の日本には「無常」の観念がはびこっており、「負」「虚」「無」といったものが日常の生活の中にあったようです。

もう一つには、そもそも日本にはウツ(現実)と、ウツツ(夢)を出入りするウツロイ(移ろい)に対する感覚というものがあり、そのウツロイのプロセスをどのようにも縮ませたり、引き伸ばしたりできたと。つまりウツロイ(移ろい)に対する感覚が非常に優れていたのです。

そして、なぜそんな伸び縮みをさせるような感覚を持っていたかというと、和歌により三十一文字で、すべてを表現する訓練が行き届いていたからだといいます。

そして、そういった表現の傾向は、様々なところまで広がっていき、その中でも象徴的なのが「枯山水」です。

枯山水には「負の庭」というコンセプトがあります。ここでいう「負」というのは「水を感じたいから水を引き算した」ということです。あえて引き算をすることによって、そこに余白をつくった。それによって「心でふさぐもの」をつくりだしました。

『茶の本』で有名な明治の岡倉天心も同じ内容のことを、

「故意に何かを仕立てずにおいて、想像のはたらきでこれを完成させる」と表現しています。

余白を味わう

iStock_000008137246_Small

私たちのなかには脈々と受け継がれた、余白を「心でふさぐもの」として味わう感覚がいまも根づいています。だから「枯山水」を前にすると深く感動するのです。

一方で、私たちの生活の中にはどれくらい余白があるでしょうか?

余白をあえて残すことで生まれる価値を大切にする文化があったのに、気がついたら、どうやって余白を埋めるかという価値観で生活をしています。

それどころか、他人の余白を埋める(奪う)ことが、ビジネスの大きな要素の1つになっています。もちろんそれによって便利で楽しく暮らせるようになったのは間違いありません。

ただ、余白を埋めることによって失われた感覚も大きいということは自覚する必要があるでしょう。

松岡氏の言葉にあった「ウツ(現実)と、ウツツ(夢)を出入りするウツロイ(移ろい)に対する感覚」というのはイメージをするのが難しいかもしれませんが、これも余白を埋める生活を送っていることで、失われた感覚の1つなのかもしれません。

いま自分の生活に「余白」を取り入れるとしたら、どんなことが考えられるでしょうか。そしてそれによってどんなことを感じるのでしょうか。

1人で京都の街を散策しながら、そんなことに思いを馳せるのもいいかもしれません。

[文]頼母木俊輔  [編集]サムライト編集部