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元ワコールの落語家「立川談慶」
立川談慶師匠は慶応卒、元ワコールという異色の経歴を持つ落語家です。ワコールを退社してからは7代目立川談志師匠のもとで修行を積み、9年半の長い前座暮らしを経て二つ目に昇進。
2005年3月には真打ちに昇進しています。ありていにいえば「苦労人」の談慶師匠は、同時に多くの著書を持つ文筆家でもあります。今回は5月に出版された『なぜ与太郎は頭のいい人よりうまくいくのか』を入り口に、お金や人間関係、そして人生について、落語から学べる考え方をお聞きしました。
なぜこの本を書くに至ったか?
―まずは今回の著書『なぜ与太郎は頭のいい人よりうまくいくのか』を書こうと思ったきっかけを教えていただけますでしょうか?
立川:学生時代、賢くて真面目で成績優秀だった子全員が、順風満帆の思い通りの人生を歩んでいるわけではなく、むしろそのダメだって言われてた子たちが故郷(くに)に帰ったら、小さいながらも地道に自分の流儀で事業を始めたりなんかしていて。
このギャップは何なんだろうと考えたときに、落語の中の与太郎とリンクしたんです。一般的にはダメだとか、どうしようもないという扱われ方をしてるんだけれども、冷静に見たときに現代人が欠落しているものを持ち合わせてるなと思ったんですよ。
「人生は長距離走だ」と思わなくちゃいけない
―確かに落語の登場人物を現代人の目から見ると、「気楽だなあ」っていう感じがすごくします。
立川:そう、「頑張る」っていう意識がないし、幸せを自覚する感覚もないし。それがないから(気楽でいられるの)かなと思ったんですよ。
がむしゃらに頑張る成長志向の生き方は、かつては国の成長と整合性がありました。ただこれは短距離ランナーの作法であって、80歳以上まで生きるということが前提になってきてる今の時代には合わないですよ。
もう「人生は長距離走だ」という意識にならなきゃいけないのに、いまだに短距離ランナーの作法がよしとされてる。このギャップにみんな苦しんでいるんじゃないかなと思っているんです。
これを変えるには根本をひっくり返す必要があって、そこで浮かび上がってきたのが与太郎だったんです。彼のように「頑張る」っていう意識も幸せを自覚する感覚も持っていない違う価値観に触れることで、肩の力を抜いて生きるきっかけになるんじゃないかと思ったわけです。
落語は「人間の業の肯定」

―談志師匠は、「落語は人間の業の肯定」とおっしゃっていましたが、談慶師匠はどういった意味としてとらえていますか?
いま考えると「他者目線」ということかなと。業というのは人間の欲望、人間のどうしようもなさですよね。それがお前にもあるってことは、他人にもあるってことだぜって。
すなわち、他人の業を認めろよ、他人を受け入れろってことなんですね。それがいま以上に込みいった江戸で暮らしていた人たちのエチケットだったのかなと思いますね。
―なるほど、他人を受け入れるというお話は理解できました。そうは言うものの、その当時の人たちにも嫌いな人がいたと思うんですが、その嫌いな人に対する対処法は落語に出てきますでしょうか?
それもいろいろあって「頭さげれば小言は頭の上を抜けていく」とか、とりあえず謝っちゃえといった具体的な作法が書かれているんですよ。そういったやり過ごすための知恵というかQ&Aみたいなものが落語の中には詰まってますね。
ニュートラル思考で生きる

立川:人生ってトーナメントじゃない、リーグ戦だと思うんですよね。一度負けてもまた戦えばいい。そう考えなければやっていけないのに、みんな意識がトーナメントで「負けたらおしまいだ」みたいになってますよね。効率を重視しすぎるとそういう意識が生まれて、枷(かせ)になるんでしょうね。
効率か非効率かの二元論で考えるのではなく、ものごとをもっと俯瞰でみて、状況によってはどっちもありだというニュートラル思考でバランスをとるべきですよ。
うまくいったらいったで「ああよかった」って感じでいいし、「ダメでもまあいいよ、こっちがあるから」みたいな、ゆとりのある考え方です。「これしかない」と思ってると、負けますよね。
―どうすればそうしたニュートラル思考を持つことができるんでしょうか?
立川:ダメなものを愛でるというか、意識して自分と違う価値観の人と接するしかないんじゃないですか。
同じ発想の人の中で育っちゃうと、どうしても効率重視になっちゃうし。だから全然違う人と付き合うとか、会社に行くまでにいつもより回り道をするとか、普段と違うことをやってみる。
そういうことを積み重ねていると、今まで見えなかったものに対する許容が生まれると思うんですよ。その受け入れる心が新たな自分の可能性みたいなものを醸成していくんじゃないですかね。
お金がないのは「回してない」から

―現代では「お金がないことへの恐怖感」が強いと思います。一方で落語の世界の人たちには「宵越しの銭は持たぬ」のような精神があります。こういう精神を取り入れるにはどう考えればいいんでしょうか?
立川:お金がないというのは、回ってないという状況ですよね。逆に言えば自分も出してないわけですよ。お金というのは「メッセージ」だと考えています。優しいメッセージをいっぱいあげて回していけば、それだけ回ってくるもんですよ。
「お金がないな」ってなっちゃうのは、たぶんメッセージを発信してないからなんですよ。例えば自分がやっているのは、宅急便で再配達してくれた方には缶コーヒーを渡すとか、前座さんにお小遣いを渡すとか。
これはお金を渡すという発想じゃなくて、あなたを大事に想ってますよというメッセージなんです。
自分も前座の頃「金がない」「どうしようもない」となっていたときは、何もしてなかったです。仕事をもらったことへの礼状も書かなかったし、逆に「安い仕事だ」なんて思っちゃったりして。根底に感謝の気持ちがなかった(金が回ってこなかった)んですよね。
できる限りでかまわないから、信用と感謝の回転運動を増幅させるべきだと思います。怖くなるのは「金は天下の回りもの」だってことを忘れて掴んじゃうからです。回しちゃえばいいんです。
金がなんで大事でもらうと嬉しいのかを考えてみると、それは金が感謝の証だからなんですよ。100万円もらったら、それは100万円分の感謝をもらったということです。
現金というよりもその裏にある感謝を思えば、「だったら回そう」となります。そうした循環ができれば、お金って(自分のところにも)回ってくるもんですよ。
立川談志に教えられた「気遣い」と「学び」の作法

―お金につぐ、あるいはそれ以上の現代人の悩みとして人間関係があるかと思います。その中に「気遣い」の難しさがあると思いますが、「いい気遣い」とはどういうものなんでしょうか?
立川:これは難しいですよね。行きすぎればキザになったり、ヤボになったりしますんで。やっぱりメタ認知ができてるかどうかで、自分がこう振る舞えば向こうはこう思うんだろうなというところの、上手な計算じゃないですかね。それってある程度しくじらないとわかりません。
談志が高座に上がる前に着替えていて、自分は入りたてだから楽屋で暖簾をあげて待ってたんですよ。すると「なにやってんの」と言われたんで「ええどうぞ、通りやすいように」って言うと、「ばかやろう、お前のリズムとテンポに俺が合わせなくちゃいけないのか」と怒られちゃったんです。
あるいは談志は横断歩道を渡るときに、弟子が手を挙げて車に停まってもらうのをすごい嫌がりました。「自分の行動を相手に強制してることになるだろう」と。
つまり、手を挙げて弟子が車を停めたとなれば、それを見た人は「ああ談志というのは弟子に車を停めさせて、交通の滞りを起こして堂々と横切るんだな」という印象を与えるだろうというわけです。談志はそういうところまでメタ認知ができる人だったんですよ。
―談志師匠に言われて、印象に残っている言葉などはありますか?
立川:「俺がここまでこれたのは、教えてくれたやつのダメさ加減に気づいたからだ」ですかね。
「指導者に対する恩義とか義理とかないのか」と酷い言葉のように聞こえちゃうんですけど、そうじゃなくてこれは「受信者としての感度を上げろ」ということ。教えてもらう立場の人はもっと上をいきなさいよということなんですね。
この考え方は教育に限らずどんな場面にもあてはまることで、結局そうしていかないと世の中が進歩していかないじゃないですか。教えてくれた人間を超えていくから進歩していくわけで。
コーチなんかに「お前はもう俺のレベルを超えた」と言われる選手がやっぱりプロになるのであって、コーチにずっと教えてもらう立場にいたらプロにはなれないですね。だからこの言葉は談志の次世代に向けたメッセージだと思うんですよ。
―本日はお忙しいところありがとうございました。
寄席に遊びに行こう!
談慶師匠のお話には、お金や人間関係、働き方、ひいては人生そのものにさえ通じるヒントがたくさん詰まっていました。
談慶師匠によれば、落語は過去の人から、真面目すぎて悩みが多い現代人への、肩の力を抜いて気楽に生きるための知恵やアドバイスが詰まったプレゼントだそうです。ちょっと最近疲れているなと思う人は、ぜひ寄席に遊びに行って落語を聞いてみてください。
