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井伊直虎に「上司との付き合い方」を学ぶ
2017年の大河のヒロイン井伊直虎。彼女は男でも命を失う群雄割拠の戦国時代を、女城主として生き抜き、滅亡寸前の井伊家を救った人物として知られています。
ここでは直虎が生きた時代を紹介しながら、彼女流のしたたかな「上司との付き合い方」について解説します。そこには自分を犠牲にしたり、上司に食い物にされるのではなく、きっちり「自分が勝つ」ための戦い方がありました。
直虎はいかにして女城主となったのか?
まずは直虎がどのような人物で、どのような時代に生きたのかを紹介します。
●井伊直盛の長女として生まれる
彼女は織田信長(1534-1582)と同時期を生きた人物で、井伊谷(いいのや。現在の浜松市周辺)を治めた井伊直盛の長女として生まれました。幼名は不明ですが、ここでは便宜上直虎と呼びます。
直盛は男の子に恵まれなかったため、直虎は本家唯一の子供として男の子向けの教育を受けます。彼女には幼馴染の許嫁がいました。それは直虎の大伯父直満の嫡男亀之丞(のちの井伊直親)です。親の間で婚約が決まった時、亀之丞はたった7歳でした。
●直虎の災難が始まる
ところがこのあたりから直虎の災難が始まります。家老の小野道高の陰謀により、大伯父直満と直義を亡くしたうえ、許嫁の亀之丞とは生き別れてしまいます。その数年後には元服(15歳)を迎えた亀之丞が亡命先で結婚し、子供をもうけたという噂を聞き、ショックを受けたのか直虎は出家してしまいます。このときから彼女は「次郎法師」という僧名を名乗ることになります。
しかし俗世を離れたあとも直虎の災難は続きます。今川義元と織田信長が戦った「桶狭間の戦い」で今川方だった井伊家は当主直盛を失い、その翌年妻を連れて井伊谷に戻っていた亀之丞(このときはすでに「直親」を名乗っていた)の義父の奥山朝利が謀殺されます。
この謀殺を手引きしたのは直虎の大伯父直満と直義を謀った小野道高の長男道好です。道好はこの後、直親も策に陥れて殺してしまいます。さらにその翌年には道好のボスであり、形式上は井伊家のボスでもある今川氏真(義元の息子)の策略により、祖父直平も毒殺されます。
●女城主・直虎の誕生
そのほかの井伊家を支える男たちも戦死するなどしていなくなってしまい、残されたのは直虎と、直親の忘れ形見虎松(のちの徳川四天王の一人、井伊直政)ばかり。
このままでは井伊家が滅亡してしまうと感じた直虎は、遂に「次郎法師」の名を捨て直虎を名乗り、虎松の後見人として井伊家復興のために立ち上がります。女城主・直虎の誕生です。
以下ではこのような壮絶な経緯で女城主となった直虎の振る舞いを通じて、彼女の「上司」との付き合い方を紹介します。
直虎流「使えない上司」への接し方

直虎にとっての「使えない上司」とは今川氏真です。氏真は義元亡きあとの今川家を復興させられず、本人は江戸時代まで生き延びるものの、最終的には今川家を滅亡に追いやっています。そんな氏真が1566年、井伊谷をはじめ都田、祝田(ほうだ)、瀬戸地域に徳政令を出します。
徳政令はいわば「借金棒引き条例」。表向きは困窮する百姓のためという触れ込みでしたが、実際は小野道好と土着の商人祝田禰宜(ほうだ・ねぎ)が、新興商人の瀬戸方久を締め出すために氏真を動かしたというのが真相でした。
徳政令は借金をしている側には嬉しい条例ですが、反面お金を貸している側には大損です。地盤の弱い方久は大打撃を免れません。方久が被害を受けると、困るのは方久から資金援助を受けている井伊家です。
そこで直虎は氏真から徳政令の指示を2年間も無視し続けました。最終的に直虎は氏真からの督促状に屈して徳政令を発布しますが、この2年間に商人たちの資産を守る別の条例を整備していたため、混乱は最小限に抑えられました。
自分の味方にだけ都合の良い命令を出す「使えない上司」にNOを突きつけ、その水面下では仲間を守るための体制を整えていたのです。
確かに直虎はこのあと井伊谷の領有権を氏真から取り上げられ、城からも追放されています。使えないとはいえ、上司に逆らったのですから左遷されても仕方ありません。
しかし直虎のこの選択が正しかったことは、のちの井伊家の復興と今川家の滅亡を見れば一目瞭然です。リーダーには何が正しいのか、誰を守るべきかを適切に、ときに強硬に決断することが必要なのです。
仕えるべき上司を見極めろ!
武田信玄の駿河(現在の静岡県東部・中部)への侵攻に対抗して、1568年に徳川家康も出陣。今川領の引馬城を攻め落し、遠江(とおとうみ。現在の静岡県西部)に陣を構えます。
家康が次なる標的に選んだのは、氏真が直虎を追放したあとの井伊谷です。家康は案内役の菅沼定盈(さだみつ)の進言で、直虎シンパだった井伊谷三人衆(菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時)を味方につけ、万全の体制で井伊谷攻略に乗り出します。
このニュースを耳にした直虎は家康のもとに馳せ参じ、家康への歓迎と恭順の姿勢を示しました。そして自分を含む井伊軍を家康軍に合流させ、井伊城攻略に力を貸したのでした。
このとき直虎はなぜ家康にここまで全幅の信頼を寄せることができたのでしょうか。現代から見れば「天下人の家康に身を寄せるのは当然だろう」と言えますが、当時の家康はまだまだ弱い武将でした。
織田信長との同盟関係は結んでいたものの、家康にできたのは信長の顔色を伺いつつ、自分の実力をアピールすることくらい。当時家康が天下人になると感じていた人はごく一握りでしょう。
そんな状況で直虎は的確に「仕えるべき上司」を選び、命をかけてサポートしたのです。目の前の状況だけに惑わされず、相手の将来性を見抜いて仕える。この判断力は戦国時代の武士だけでなく、現代の企業戦士にも必要な素養と言えます。
信頼できる上司には部下を育ててもらう
直虎と直虎が出家する際の世話をした龍潭寺の南渓和尚は、1575年に15歳になった直親の息子虎松を徳川家康に謁見させます。
当時身を隠すために母親の再婚相手だった松下清景の姓を名乗っていた虎松ですが、これをきっかけに井伊姓に戻り、家康から「万千代」の名をもらい、家康のお小姓として浜松城に仕えることになります。
将来の天下人のもとで鍛えられた虎松は、のちに武田氏との戦いで武功を積み重ね、徳川四天王の一人井伊直政として勇名を馳せました。「安政の大獄」「桜田門外の変」などで知られる幕末期の幕府大老を務めた井伊直弼は、直政の子孫です。直政は井伊家が実に200年以上も江戸幕府を支え続ける基盤を作った人物と言えるでしょう。
ここでも特筆すべきは直虎の判断力です。前述のように家康は当時まだ大きな勢力を持っているわけではありませんでした。しかし直虎は自分の判断で家康の将来性を見抜き、この信頼できる上司に部下(=虎松)を育ててもらうことにしたのです。こうすることで井伊家と徳川家のつながりはより強固になり、のちの繁栄につながっています。
これは「信頼できると確信した上司に部下を育ててもらい、より人脈を強固する」という現代にも通じるネットワーク術と言えそうです。ついつい可愛い部下は自分のチームや部署に囲いたくなりますが、そこをぐっと我慢して信頼できる人に方向に出す。こういう考え方のできる人間でありたいものですね。
「女城主」ならではの戦い方に学ぼう
2017年の大河のヒロイン井伊直虎には、「非力」という戦国時代において圧倒的なディスアドバンテージがありました。しかしそんな状況でも、彼女はその確かな判断力で井伊家を守り抜き、江戸時代での繁栄への架け橋を作ったのです。
直虎のようなしたたかな戦い方は、筋骨隆々の武将には難しかったでしょう。血の気が先に立ってしまうからです。歴史でも現代でも男性は、こうした女性ならではの戦い方から多くを学ぶ必要があるのではないでしょうか。
