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働く女性、誰を見本にすればいいの?
昨年9月に政府が「2020年までに女性管理職の割合を3割以上にする」という目標を発表したことは記憶に新しいでしょう。この目標がなくともいまや女性が働くことは当たり前になりました。出世している女性も増えているとはいえ、人類の歴史からすると女性が男性と同じ環境で働くようになったのはごく最近なのです。
前例があまり無いなか、これから新しい常識を作り、時代を拓いていかなければならない働く女性たちは誰を目標とすれば良いのでしょうか?
まだ女性が働くことが当たり前ではなかった時代に活躍した5人の元祖キャリアウーマンをご紹介します。彼女たちを心に住まわせ、時代の変化を乗り切りましょう。
お局様の語源となった「春日局」
何度もドラマ化や漫画化をされたため、「大奥」という題材が好きな女性は多いのではないでしょうか。春日局はこの大奥を作った女性として有名です。
「春日局」は本名ではなく朝廷から賜った役職名であり、現代にも社内で恐れられている重鎮的女性を意味する「お局様」という言葉として残っています。彼女のキャリアは乳母として単身幕府に入った時から始まり、徳川家光を育て、朝廷との交渉まで単身で行う気概あふれるキャリアウーマンでした。
しかしここまでの道のりは平坦なものではなく、幼少時代には武家の姫として育った春日局ですが、明智光秀に仕えていた父が「本能寺の変」により反逆者となり処刑され、兄弟は行方をくらまし一家離散。女であったため追求から逃れられた彼女は遠縁の公家の元で育ちます。
女性でありながら権力を手にした春日局は幼少時にすでに「女だったからこそ」殺されることなく生き残っているのです。女性であることをハンデではなく強みにし、女性にしか出来ない「乳母」という役職で男性社会である江戸城に乗り込もうと考えたのもこの経験があったからかもしれません。
現代でも男性が中心の職場は珍しくありません。男性と肩を並べて働く女性は気苦労や、体力の差を感じることも多いでしょう。しかしそのような環境でも、女性ならではの視点が必要な仕事や、女性にしか出来ない仕事があるはずです。
春日局を心の中に住まわせて、女性であることをハンデにせず強みとして役立てようとするマインドを常に持っていたいですね。
スーツでイノベーションを起こした「ココ・シャネル」
今なお愛されるブランド・シャネルはいつだって女性の憧れでした。時代に寄り添いながらも芯を強く持ったデザインは時代を問わず共感を呼ぶのでしょう。創立者でありデザイナーであるココ・シャネルは正にシャネルを擬人化したかのように芯の強い野心的な女性でした。
シャネルの代表的な作品といえば「シャネルスーツ」です。窮屈なコルセットに締め付けられる女性のファッションに疑問を持ったココはこのスポーティーかつシンプルなスーツを通じて「女性の自立」を世間に訴えました。
男性用のスーツの機能性や仕立てを応用して作られたシャネルスーツですが、ココは決して女性を男性と同化させようとしたのではありません。女性の服に機能性を追加しながらも女性を美しく見せるシルエットや色合いを排除することなく、全く新しい女性像を作り出しました。
今ある常識に捉われず、物怖じせずに新しいものを取り入れアイデンティティを失わない。そんな性質はシャネルのアイテムにもココ・シャネル自身にも共通しています。
疑う人が少ないからこそ常識とされている「常識」を疑うのは今も昔も大変難しいことです。しかし、いつだって時代を変える人は一緒に常識も変えてきました。
ココ・シャネルが起こしたようなイノベーションもきっと常識を疑うことから始まるのでしょう。あなたも心の中にココ・シャネルを住まわせて、新しい価値を作るチャンスを見逃さないようにしましょう。
自分の価値観を信じよう「新島八重」
NHK大河「八重の桜」で彼女を知った方も多いのではないでしょうか。新島八重は明治時代初期に女性でありながら銃の名手として会津戦争を戦い抜きました。
「女が守るのは家庭」という時代に銃をとり故郷を守った彼女は、周囲の偏見に負けることなく己を貫き続けた女性です。戦争が終わり、結婚をした後の生活にもその気質は強く残っており、彼女は周囲から「悪妻」と呼ばれていました。
しかし、八重自身がひどい性格だったというわけではなく、宣教師である夫が西洋文化から影響を受けたレディ・ファーストに倣って馬車に先に乗り、夫の先を歩き、夫を呼び捨てにする姿が彼女の暮らした京都では傲慢に映ったためについたあだ名だと言われています。
自分たちの新しい価値観を疑うことなく、周りからどう言われていたとしても己を貫けた八重の生涯はきっと幸福だったことでしょう。男性だから女性だからといってくくられることなく、通常の夫婦像にくくられることなく、自分の生きたいように生きてゆけばまた新しい価値観が生まれます。
様々な生き方が許容されるようになったとはいえ、今なお人と違ったことをすれば後ろ指をさされることもあります。しかし、そこで自分の価値観を信じてやりたい事をやり通した人だけが得られる幸せはどんなものにも変えがたいものです。
周囲にどんな目で見られても、自分のやるべきこと、すべきことにストイックに挑み続ける。新島八重を心に住まわせれば、そんな姿勢を忘れることなく働いていけそうです。
海外で戦火を生き抜いた「クーデンホーフ・光子」
今では街中で国際結婚カップルを見ることも珍しくありませんが、明治時代には家を勘当されるほどの大事件でした。クーデンホーフ・光子はそんな明治時代にオーストリアハンガリー帝国に嫁いだ女性です。
彼女こそが正式に届け出を出された国際結婚の第1号であり、EUの概念を作ったリヒャルト・栄次郎・クーデンホーフ・カレルギー伯爵の母として、当時のメディアに「欧州連合国案の母」と呼ばれた女性です。
日本は極東の小国としか見なされていなかった当時、珍しい黄色人種であることに加えて平民出身で礼儀作法や立ち振る舞いの教育を受けていないことから、光子はどこへ行っても大変心苦しい思いをしたことでしょう。
しかし、光子はどんなにヨーロッパでの生活が辛くとも、日本が恋しくとも逃げ帰ることだけはしませんでした。「ここで逃げ帰っては日本人女性の汚名を残すことになる」と考えたのです。
彼女は寝る間も惜しんで3種にわたる言語や礼儀作法を学び、夫が亡くなったのちには法律、簿記、経営などまで学び、夫の遺した領地を管理できるようになりました。
母国である日本と嫁ぎ先であるオーストリアハンガリー帝国が敵対することになった第一次世界大戦も光子にとっては大変風当たりの強い事件でしたが彼女は赤十字隊として必死に奉仕し、持ち前の決断力と行動力で領地の畑の指揮をとり食糧難まで解決し、現地の人々に認められたのです。
光子の嫁ぎ先は厳しすぎるほどの逆境でしたが、生涯それを克服するための努力を惜しまなかったのです。立派に育った彼女の子供たちも、そんな彼女の背中を見て育ったのでしょう。
「努力を惜しまない」と言葉にするのは簡単ですが、過酷な環境でそれを続けることは筆舌に尽くしがたい事です。明治時代ではなくとも働く上では、転職や異動など新しい環境で右も左も分からぬまま努力を続けなければならない状況は少なくありません。
そんな時に諦め、逃げてしまいたくなった時にはクーデンホーフ・光子を思い出しましょう。彼女のように新しい環境に負けずに努力を続ければ、きっとどこかで認めてもらえるはずです。
努力の具現化だった奇跡の人「ヘレン・ケラー」

あまりに有名なヘレン・ケラーは、2歳の時の高熱で生死を彷徨い、視覚・聴覚を失いました。そんな彼女が福祉の分野だけに止まらず、政治的関心も広く持つ女性になるとは一体誰が想像したでしょうか?
視覚・聴覚・言葉の不自由を克服したエピソードだけでも多くの人々を勇気付けているヘレンですが、職業は「教育家・社会福祉事業家」です。彼女は目の見えない人たちのための社会整備を呼びかける運動や、生涯を通して世界各地を周り講演を続けました。
上っ面の言葉ではなく、自らが努力の結果だったヘレンの言葉は多くの人の胸を打ち、人生を変えたことでしょう。そんなヘレン・ケラーの言葉にこんなものがあります。
ヘレンの育て方がわからなかった両親にわがまま放題に育てられ、獣同然だった彼女が家庭教師アン・サリバンとの出会いによって変わっていく姿は映画や舞台でもとてもよく知られています。目や耳の不自由なまま、常識的な振る舞いはできないだろうと諦められていたヘレンが言うからこそ意味のある言葉となる名言です。
ヘレン・ケラーはただ一人信じて教育を続けてくれたアニー・サリバンに応え、彼女も自分自身の限界を定めずに信じ抜いたからこそ、多くの人に希望を与える存在になることができたのです。
無意識に自分の限界を定めてしまっている人は多いでしょう。測ることのできない可能性を自分で閉じ込めてしまっていることは大変もったいないことです。そばにアニー・サリバンがいないのなら、自分自身が自分を信じなければならないのです。
弱気になった時、自分の限界を決めつけてしまいそうな時には心の中に住まわせたヘレン・ケラーの言葉を聞きましょう。
女性が働きやすい社会は女性が作る
取り上げた女性たちが活躍した時代は、今とは比べ物にならないくらい働く女性への風当たりの強い時代でした。しかし、彼女たちが最前線を切り開き、「女性」の定義を変えてくれたからこそ今、女性が活躍できる社会があるのです。
そんな彼女たちを心の中に住まわせていれば、きっと前より明るい気持ちで仕事に励むことができるでしょう。新しい時代を作るために、過去のキャリアウーマンたちの声に耳を貸してみてはいかがでしょうか。
[文・編集] サムライト編集部