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20世紀最大のトリックスター
20世紀のポップアートの巨匠とされ、死してなお現在もユニクロをはじめとする企業とのコラボ商品が量産されるアンディー・ウォーホル。生前も天才としてもてはやされた彼の成功には、どんな秘密が隠されていたのでしょうか?
そして彼のクリエティビティはどこからきていたのでしょうか?ウォーホルの仕事から、現代の私たちが学ぶべきことついて考察します。
ウォーホルの人生哲学−だからどうなの?
だからどうなの?問題を問題にしない
彼の座右の銘は「欲しがらなくなったとたん手に入る」でした。彼は著作『僕の哲学』(新潮社1988)の中で、すべての問題を問題化しないために「だからどうなの?」と言ってしまえばいいと言います。そうやってうやむやにしていればいつか解決するのさ、と言うわけです。日本人の感覚からすれば、なんとも軽薄な人物だったのです。
母親に愛されなくてねえ−だからどうなの? 旦那がちっともセックスしないのよ−だからどうなの? 仕事ばかりが忙しくてさ−だからどうなの?引用:http://1000ya.isis.ne.jp/1122.html
誰が署名しようが関係ない、講演にも替え玉を送る
ウォーホルの軽薄さを示すエピソードには事欠きません。彼は極度のマザコンだったことも知られていますが、彼の作品の中にはその母親が「アンディー・ウォーホル」とサインをしたものも混じっているのです。あるいは自分が講演を頼まれたのにもかかわらず、適当に見繕った替え玉を送り込んだ、というエピソードも残っています。彼の作風とも共通しますが、自分を含めた「オリジナリティー」になんの頓着もない人物だったのです。
死んでから有名になる芸術家とウォーホルの違い

Photo by dalbera
こんな軽薄で常識はずれのウォーホルが成功したのはなぜなのでしょうか。死んでから有名になった画家の筆頭にヴィンセント・ヴァン・ゴッホが挙げられます。
ゴッホのような芸術家は言ってみれば時代の先を行き過ぎていたわけです。それに対しウォーホルは時代の先を行かず、かと言って後ろを走るわけでもなく、ぴったりと寄り添って芸術活動を行ったのです。だからこそ爆発的な人気を博したのだと言えます。
マリリン・モンローが死んだ?そいつはいい。
1962年8月5日、20世紀アメリカの「性」の象徴とも言えるマリリン・モンローが謎の死を遂げます。その同じ年、ウォーホルはマリリン・モンローを自分の作品に取り込み「ゴールド・マリリン」を製作してしまいます。大衆からすればもっともタイムリーな人物マリリン・モンローを、あっという間に商業デザインに落とし込んだのです。
ニクソンが中国に行くだって?そいつはいい。
あるいは1972年アメリカ大統領リチャード・ニクソンが毛沢東擁する中国に訪問しました。これはのちに第二次大戦後の冷戦のきっかけとなる歴史的な出来事ですが、この時もウォーホルは同年に毛沢東のポートレイトを製作してしまっています。大衆が欲しがるものを欲しがる時に、まさにジャストインタイムの発想でデザインを提供していたのです。
どうせみんなパーティが大好きなのさ

Photo by Jeff Tidwell
故人を商業デザインにするスピードといい、重要な政治問題もスルーして作品にしてしまう浅薄さといい、なかなか常人にはし得ない行動をウォーホルができる背景には青年期の経験がありました。
18歳まで親友のいなかったウォーホルは、そうすれば周りの人間に見向きをされるかと考えます。最終的に彼は自分からみんなのところに行くのではなく、パーティ会場を用意してみんなに来てもらうようにしたのです。
はじめのうちは誰もこなかった彼の会場も、しばらくたってウォーホルの変人加減に人気がではじめ、盛況となります。この時彼は「みんな結局のところパーティがあれば集まるんだ」と大衆の行動原理を理解してしまったのです。
ウォーホルの表現手法とは?

Photo by Maurizio Pesce
大衆の「パーティ好き(お祭り好き)」の心理を理解し、ジャストインタイムで大衆好きのするデザインを用意できるウォーホルが自分の表現方法としたのは「大量生産」でした。
代表作品「キャンベルスープ缶」のように感情移入が必要なく、ただそこにあるだけのものを、意味もなく羅列する。これがウォーホルの真骨頂です。この手法はマリリンも毛沢東もすべて無意味で浅薄な記号に変えてしまいます。ウォーホルは大衆の大好きなお祭りを繰り返しによって演出したのです。彼の言葉にこんなものがあります。
もしアンディー・ウォーホルのすべてを知りたいのならば、私の絵と映画と私の表面だけを見てくれれば、そこに私はいます。裏側には何もありません。引用:http://meigen-ijin.com/andywarhol/
ウォーホルのクリエティビティはただただ表面的であること。それに尽きるのです。
アトリエ「ファクトリー」
彼の作品は「ファクトリー」と呼んだアトリエで制作されていました。しかしそれはその名の通り工場のような場所で、制作は分業され、機械的に芸術を「生産」したのです。
しかし一見オリジナリティーを重んじる芸術からすれば冒涜にすら見えるやり方も、当時の時代にはマッチしていました。ウォーホルのファクトリーには彼が雇っていた助手だけでなく、ミック・ジャガーやトルーマン・カポーティといった時代を背負う芸術家が集まってきたのです。
しかしひょっとすると、ウォーホルからすればこのファクトリーも、18歳のころ自分が友達を作るために開いたパーティにも大した違いはなかったのかもしれません。つまりミック・ジャガーやカポーティでさえ、ウォーホルにとっては「パーティ好きの大衆」として写っていて、どこまでも世界は浅薄で、軽薄なものだったのではないでしょうか。
ウォーホルには創造性はあったのか?
ウォーホルのクリエティビティはただただ表面的であること、と書きました。彼に創造性があったとすればそれはファクトリーで行ったような「芸術の機械的生産」という手法を見つけた点だけです。あとは世の中のパーティ好きの人たちのためにひたすらデザインを量産するだけ。そこには直截に言って創造性はありません。
ウォーホルのマーケティング能力
では私たちが彼に学ぶものは一つもないのかといえば、そんなことはありません。ジャストインタイムで大衆の欲しがるものを提供する、そのマーケティングセンスには注目すべきでしょう。ウォーホルのこのマーケティングセンスはアートディレクター時代に培われたものだとも言われますが、彼の芸術活動にそういった理論的・戦略的なものがあったかはわかりません。とはいえ、
好調なビジネスは、何よりも魅力的な芸術だ。
彼が残したこの言葉からも伺えるように、ウォーホルが商売好きな芸術家であったということだけは言えるようです。自身の人生哲学「だからどうなの?」を芸術活動にまでしっかりと貫いたアンディー・ウォーホル。しかしその浅薄さゆえに同じく浅薄な大衆の心理を見事に読むことができたのです。彼はまたこんな言葉も残しています。
考えは豊かに、見た目は貧しく。引用:http://meigen-ijin.com/andywarhol/
さて軽薄の芸術家アンディー・ウォーホルは本当に軽薄だったのでしょうか。それとも実は軽薄なふりをしていて、自分のアートをもてはやすパーティ好きの大衆を冷静な目で見ていたのでしょうか。こんなミステリアスな部分も、今なお人々がウォーホルのデザインに魅了される所以なのかもしれません。
[文・編集] サムライト編集部