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孔子の『論語』より、『蛭子の論語』
『論語』とは紀元前552年から紀元前479年を生きた孔子とその高弟の言葉を収めた古典です。これを漫画家・蛭子能収さんが読む、というスタイルで書かれたのが『蛭子の論語』。蛭子さんは本書の中で本家『論語』に賛同したり、時には疑問を投げかけたりしながら、自身のライフスタイルについて語っています。ここではその中でも特に蛭子さんらしい考え方の部分を一部ご紹介します。これを読めば、あなたも蛭子さんのように自由になれるかも!
不満は言っても途中でやめなければいい

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テレビ番組『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』が始まった頃の蛭子さんは「もう歩けない」などの弱音や文句ばかり言っていたのだそうです。しかし、同時に蛭子さんは「僕の場合『途中でやめてしまう』ということはない」と言います。不平不満を言いながらも、仕事をもらえるうちはやってみる。
そうすれば何度もロケを繰り返しているうちに、体力がついて弱音や文句が減っていった蛭子さんのように、ちょっとずつ前に進めるのです。「不満は言っちゃダメ」と難しく考えないで、とりあえず吐き出してみて、「ちょっと無理かも」と思いながらもやってみるのも気楽でいいかもしれません。
いつでもいちばん下っ端でいるべし
「群れるべきではない」「グループに属するべきではない」これらは蛭子さんにとって大切な信条なのだとか。なぜかというと、群れたり属したりすれば、それぞれの派閥の間に必ず争いが生まれるからです。この信条を貫くためには、常に集団の中で「下っ端」でいる必要があります。
自分自身が意見を持ってしまえば、それに賛同する人が出てきてしまう。それを防ぐには常に他者に敬意を払いながら、謙虚な姿勢で状況を傍観できる立ち位置=下っ端でいなくてはなりません。自分の意見を主張しないのは難しいことかもしれませんが、こうすることで蛭子さんは自由な立ち位置を守り続けているのです。
「自分を理解してもらいたい」なんてナンセンス
蛭子さんは「他人の気持ちなんて、本当のところ実際その人になってみないとわからない」と考えています。だからこそ、「他人に自分のことを完全に理解してほしい」なんて願望はナンセンスだと言い切るのです。私たちはついつい他人に対して「自分のことをわかってくれない!」とイライラしがち。でも蛭子さんのように始めから「自分のことなんて、誰にも理解されるはずがない」と考えていれば、そんなイライラからも自由になれます。
お金があるなしは、人生の楽しさとは無関係

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「お金を稼げるようになってから新しく見つけた楽しみなんて、きっとないんじゃないかな」。蛭子さんは、自分の今の生活と昔を比べてそう言います。私たちはいつでも「もっとお金があれば人生はもっと楽しくなるだろう」と思いがち。でも本当にそうでしょうか。お金ができたからと言って新しい趣味を始めたり、それまでは買わなかったものを買い始めたりしても、結局長続きしないのが人の常。
本当の意味で人生を楽しくするのは、「お金があるときもない時もやめられないもの」です。だから蛭子さんは断言します。「たとえまた貧乏になろうとも、僕はギャンブルをやり続ける」と。
人の判断基準は「顔」。それだけ。
『論語』では人物を評価する時にはその人の「過去」「現在」「未来」を見極めろ、と言います。この考え方に賛成の人も多いでしょう。しかし蛭子さんは『論語』のこの考え方を「他人をそこまで知っても自分の人生にそれほど大きな影響はないじゃないですか」とバッサリ。そんなことよりも「明日の競艇の出走表」の方が大事だから、人の判断基準は「顔」だけで十分なんだ、と言います。
私たちはひょっとすると大して重要でもない人間関係に自分の労力を割きすぎているのかもしれません。蛭子さんのように自分が楽しいと思うことに興味のアンテナを張り、「それ以外のことはどうでもいい」と考える方が他人に縛られずに生きていけそうです。
協調性は必要な時だけ発揮する
「協調性」は社会で生きていく上で必要不可欠なスキルです。しかし常に必要なのかといえば、全くもってそんなことはない。自由気ままに思われる蛭子さんも、仕事の上では協調性を意識してうまくやろうとしているのだそうです。
しかしプライベートは別。蛭子さんは「みんながいるから」「みんながやっているから」という理由で、自分の自由を制限する必要はないと言います。和合(=親しみ合うこと)はしても、雷同(=むやみに人の意見に同調すること)はしない。『論語』で書かれているこの知識人の条件に、蛭子さんも強く賛同しています。
「友だちだから断れる」という関係が「本当の友だち」
「友だちの誘い(頼み)だから断れない」というセリフを一度は使ったことがあるはずです。しかし蛭子さんにしてみればこれは「本当の友だち」ではありません。蛭子さんは「人は自由を求めるもの」という前提を大切にしているため、相手に気を遣わせるようなことはしたくないと考えています。
それは遊びの誘いも同じ。こちらから誘ってしまうと相手は「断りにくいな」と思ってしまうでしょう。それは相手の自由の侵害です。しかしそんな時に「断りにくいな」という気遣いをせず、「今日は用事があるからダメ」と断れるのなら、それは互いに自由を尊重しあえる「本当の友だち」なのではないか。蛭子さんはそう考えます。蛭子さんに言わせれば、「(本当の)友だちだから断れない」のではなく、「(上辺の)友だちだから断れない」というわけです。
理想が消えたころに、進むべき道が見えてくる
蛭子さんは「漫画に対する野心みたいなものがなくなっていくにつれて、テレビの仕事が急増していきました」と言います。理想を追い求めていた頃は「これは絶対に面白い!」と自分だけの思い込みで漫画が描けていたのが、年をとるにつれて自分を客観的に見られるようになると、自分の理想の弱点や勘違いに気づき始めたのだそうです。
理想がそうやって消えていくことを『論語』をはじめ、世間一般は悲しいことだと思いがち。しかし蛭子さん曰く「理想がなくなったらなくなったなりに、また別の新しい道が開けていくから大丈夫」。「理想」にしがみついて手放せない人は、思い切って手放してしまうのもアリです。
ひとりぼっちの何が悪い
『論語』には「徳孤ならず」という一節があります。これは「人格に優れている人は、けっして独りではない」という意味。蛭子さんはこの一節に対して、確かにビートたけしさんのように徳のある人の周りには人が集まってくると肯定した上で、「孤独であることが、まるで悪いみたいじゃないですか」と反論しています。
今の日本においては、ひとりぼっちでも十分人生は楽しめるのだから、ことさらに「孤独はいけないことだ」と言う必要も、思う必要もないと言うのです。「友だち偏重主義」の現代だからこそ、「ひとりぼっち」の価値を見直す。SNSなどでの「繋がりすぎ」に疲れた人にとっては目からウロコの考え方ではないでしょうか。
「引き算の哲学者」蛭子能収
ここで挙げた考え方を端的に言い表すと「引き算の哲学」と言うことができます。「自己主張」や「協調性」「友だち」「理想」など、世間的にはプラスイメージで捉えられる物事を「ひょっとしてそれって必要ないんじゃないの?」と差し引いていく。
それこそが蛭子能収流の哲学なのです。モノはもちろん、人間関係も飽和状態にある今の日本だからこそ、蛭子さんの「引き算の哲学」こそがとっておきのマインドセットなるのではないでしょうか。
参考文献『蛭子の論語』
