憧れのTV業界で働くも突然すべてが嫌になり、現場から逃走。すがるような思いで向かったのは、留学時代の輝かしい思い出の場所、オレゴン。
一時の懐かしさの後、湧き上がってきたのは、何もできない情けない自分への無力感だった…(vol.1 理想と現実を読む)
堕落の日々
約2週間のオレゴンへの旅から帰国した僕は、定職に就かず、気の向くまま起き、街を徘徊し、酒を浴びるように飲んで寝るような日々を送っていた。
自分でも、なぜ? そんな日々が続けられたのか?今でも不思議でならない…
強いて言えば、貯金。そして、ビギナーズラックもあったのかもしれないが、パチンコと競輪が生活の糧。まるで2時間ドラマに出てくるような、ステレオタイプの駄目なヤツだが、それが当時の僕の生活だった。
思考回路も麻痺していた。ただただ究極な自暴自棄。絵に描いたような堕落した日々。
しかし、パチンコを打ちながら、心の中では「何かしたい。何かしたい。」と、いつも考えていた。探さなきゃ… ちゃんとした仕事…
しかし、何かしたいと思いつつ、その思いとは裏腹に、“何をするのも怖い”
そして、楽な方へ、楽な方へと流れて行った。酒とギャンブルと、時々、女。
そこから一歩を踏み出したいが出来ない。自分と葛藤しながら、時間だけが過ぎていった。
祖母の死

そんなある日、おふくろからの電話。出る気も無かった。でも、なぜか通話ボタンを押してしまった。何ヶ月ぶりかのオフクロの声。もしかしたら、一年ぶりぐらいだったか。
鬱陶しいと思うヒマもなく飛び込んできた言葉…
「おばあちゃんが、もう長くないの…」
「すぐという訳ではないの… でも早ければ1週間…」
意味が分からなかった。急に突きつけられた祖母の危篤…難病指定されている病に数年前からなっていたなんてちっとも知らなかった。
「なんなんだよ!ばーちゃんが、寝たきりになるまで。長男の俺に、なんで、一言も話がないんだよ!!」
「病室で管だらけにされて、意識もなくベッドで寝たきりなるまで、なんで一言もないんだよ‼」
心の底で、おふくろに、そして妹たちに毒づきながら、祖母が入院している相模原市の病院へと急いだ。
5月の夕方。帰宅する高校生たちが目立つ電車の中。お父さんと手をつなぎ、少し緊張していながらも楽しそうな小学生の、真新しい黒いランドセルが眩しかった。
家族…
そんな言葉が、心をしめあげる。
父親に手をつないでもらったことがあっただろうか…自分の過去を辿ってみたが、分からなかった。
幼いころ、手をつないでもらった気もする。でも、分からない。
仕事からも、家族からも… 俺は見放された。
自分には何もない… 何もできない…
救いの手

祖母の四十九日が終わり、納骨も無事に済んだ頃から、またギャンブルと酒の日々が始まった。
この環境から飛び出すこともできず、『自分に出来ることなんて、なにもない』と、呪いの呪文を自分自身にかけ続け、堕落した生活を続けた。
こんな救いようのない馬鹿な僕に、定期的に連絡をくれ続けた人がいた。全部放り投げて不義理をしたTV業界時代の先輩だ。とくに相談をした訳ではなかったが、やばい状況に気づき、心配してくれていたんだと思う。
時々、食事にも誘ってくれた。何を話したか覚えていないが、色々と他愛もない話をしたと思う。その方は食通といってもいいほど、美味しいお店をいっぱい知っていて、連れて行かれる店々で、毎回美味しいお料理に感動したのだけは、今もはっきりと覚えている。
先輩との食事は、本当に素晴らしかったし、常に驚きの連続だった。こうやって美味しいものを食べたり、楽しくお酒を飲むのが好きだった。まあ、僕の場合、暴飲暴食なだけかもしれないが(笑)これが確実に僕を癒していった。
ある日、その先輩に親しい友人数名を招いたホームパーティーに誘っていただいた。少しは役にたとうと料理の手伝いをしていたら、先輩にこう声をかけられた。
「ケイジの顔。いい顔してるんだよな。自分じゃ分からないだろうけど、業界で仕事していた時に、見たことのない、いい顔してるんだな。料理してるとき」
僕は「ホントっすか?」と、言いつつも、???… 意味不明…
料理は楽しかった。でも、腑に落ちない。
しかし、これがキッカケになり2006年の年の瀬、先輩の知人が経営する恵比寿の飲食店でアルバイトをすることになった。ほぼ強制で(笑)
残念ながら、そこは数ヶ月で辞める事になるんだけど、本当に色んな事を教えていただいた。お店を辞める時、先輩に言われた言葉は今もはっきり覚えている。
「お前は、ダメダメだけど、飲食はあってるかもな…」
こうして僕は飲食業界への第一歩を踏み出した。そして、僕はすぐに飲食の面白さに目覚めていった。
30歳の決意

30歳になったばかりの僕は、決心する。
「5年以内!! 35歳までに自分の店を出す!!」
「誰がなんと言おうと、自分の店を出す!!」
30歳の男が心を熱くして、自分に誓った(笑)
しかし、30歳はどの業界でも、新たにイチから始めるのは難しい年齢だ。だから、バイトの道を選択し、バイトに明け暮れた。
まだ間に合う。
今まで何もしてこなかった自分。色んなモノから逃げて、失ってきた。
でも、まだ間に合う。
自分に言い聞かせて必死に働いた。
朝9時から、うどん割烹店。
夕4時から、居酒屋。
深夜は、そば屋。
そして、また朝9時から…
アルバイトながら、月収が40万を超える月もけっこうあった。クソ働いた。せっかく稼いでも、税金で、けっこう持ってかれるんだよね(笑)でも、働いた。働き続けた。
ちょうどその頃、「食の安全」なんて言葉が囁かれる様になっていた。
可愛いい姪っ子、産まれて間もない甥っ子。こいつらが、二十歳を迎えるころ、この国に、人の温かみある手作りの料理はあるのか?
そんな思いが沸々と僕に何かを語っていたのを、今も忘れない。自分が求める何かが飲食にはある。確信に似た思いというか、こころざしめいたものが少しずつだけど、僕の心の中で育ち始めていた。
テレビ・映像業界に属そうとした昔の僕の気持ちと同じ。
パレスチナでの3週間にも及ぶ難民キャンプの滞在。生活するのも、滞在するのも困難な地。いつ空爆されてもおかしくない環境。それをも苦ともせず、自分が探していた何かを刺激する体験を心底から望んだ。それに似た、でも、何かが違う、僕自身の決意が広がっていた。
親友との再会

そんな新しい目標に向かって、第一歩を踏み出そうとしたていた時、大学時代の友人から連絡があり、飲みながら色んなことを語り合った。
こいつこそ本当の親友!!といっていいだろう。『僕の全てを知っている。』と言っても過言ではない。親友と書いて、『悪友』とも読む(笑)
内山みのり。彼女と僕は、大学時代、同じ大学のジャーナリズム学部・広告学科に所属し、アメリカであるCM賞の賞も受賞したパートナー。実は僕がいたジャーナリズム学部・広告学科は、全米ナンバーワンにランキングされている超有名校だったのだ!
親友の彼女と他愛もない話しが続き、学生時代と同じような時間が流れた。充実していた。学生時代と同じように。
彼女は、有名代理店に勤務した後、第一線から退いていたが、才女であり、次のステップを模索していた。
「今までにない、個人事業主を対象にしたコンサルティング的なことを具現化したい」
それが、彼女の次のプラン。学生時代の悪友が、同じ時期に新たな目標にチャレンジしようとしている。これも当時の僕にとっては、本当に励みになった。
酔っぱらっていたのか、僕は店を出したいという想いを熱く語った。そして話題は「どうやったら飲食店を出せるのか」に。
すぐに話は盛りあがり、そのまま居酒屋を飛び出し、二人で書店に向かった。「ハウツー本でも買って、飲食店開業の仕組みを知ろうぜ。」というわけだ。さすが相棒、ノリがいい。
さっそく読んだ本でわかった答えは意外なものだった。
「いつでも出せる!」
※僕はこれを、『恐怖の“ハウツー本“マジック』と呼ぶようにしている。
そして、彼女との10年ぶりの共同作業が始まった。
お店のコンセプト、外観イメージ、内観イメージ、コンセプトカラー、料理の内容、接客のスタイル、そして店の名前。
僕は動きだしたら早いのだ。前向きで、充実感溢れる楽しい日々が始まった。(vol.3へ続く)
東京都渋谷区神泉町9-12 03-5456-0557
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※8/20(木)~8/30(日)は、オレゴン研修のためお休みです
日本で唯一のオレゴン・ワイン専門店をつくってみた vol.1 理想と現実