プロの文学研究者が選ぶ「最強の日本近代文学」15選

日本近代文学を味わいつくせる作品リスト

時代を超えて読み継がれる作品には相応の面白さ、美しさ、教訓が込められているものです。これは日本近代文学においても同じです。しかし「近代の小説は苦手」という人も多いのではないでしょうか。これではもったいない。

そこで筆者はプロの研究者に協力を仰ぎました。今回協力いただいたのは高知大学人文社会科学部で日本近代文学を専門に研究されている、田鎖数馬准教授です。

以下では田鎖准教授に挙げていただいた15作品を読んだ筆者の所感と、准教授自身が各作品につけてくださった解説文とを併記しています。どれを読んでも「想像以上に面白い」こと間違いなし。小説黎明期から現代に至るまでの珠玉のリストをどうぞご覧ください。

「最強の日本近代文学」15選

1 二葉亭四迷『浮雲』

初出:第一編(明治二十年六月)と第二編(明治二十一年二月)は金港堂より刊行。第三編は明治二十二年二月『都の花』に発表。

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主人公の内海文三は官吏で、お勢との将来を暗に認められていましたが、官制改革のあおりを受けて免職されてしまいます。そのことがきっかけとなって、お勢やその母であるお政は、文三に冷淡になります。やがて、お勢は処世術にたけた本田昇に惹かれるようになります。一方、文三は二階の一間に閉じこもって悶々とし、あらぬ妄想に耽った末、もう一度お勢と話し合って、かつての関係を修復しようと試みることに。しかし、ここで作品自体は中絶してしまうのでした。

本作は日本近代小説を考えるうえで読んでおくべき作品の一つといえるでしょう。第一編、第二編、第三編と物語が進むにつれて大きく文体が変わる点は、「小説」が生まれたての時期だからこその特徴です。作品の内容もさることながら、やはり小説黎明期の試行錯誤を目の当たりできる点に本作の価値はあるでしょう。

言文一致体とはいえ現代人には多少読みにくく、何の知識もなく読み始めるとちんぷんかんぷんかもしれません。しかし文庫版などには詳しい注釈がついており、これと合わせて読めば面白く読めるようになります。

<田鎖准教授評>
お勢は時代の生んだ新しい女で、漢学や英語を習い、男女交際論などの議論をよく行っていました。そのお勢が最終的に保身のために上司に追従する本田に惹かれていくという展開は、お勢いの新しさが皮相なものであったことを示しています。

こうしたお勢の姿は、当時の日本が皮相な近代化に突き進んでいたことの象徴として、批判的に描かれています。もっとも、このお勢に振り回される文三が、哀れな犠牲者とばかり位置付けられていたわけでもありません。文三は生真面目で、したたかに生きる強さを持ち合わせていませんでした。この点についてもまた批判の目が向けられていると考えられるでしょう。

近代化が急速に進められてきた激動の時代に生きる人々の姿を、複眼的な視点で描き出したところに、この作品の魅力があります。また言文一致体小説の最初期の試みであることも注目されます。

2 樋口一葉「十三夜」

初出:明治二十八年十二月『文芸倶楽部』

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本作のお関は、高級官僚である原田勇との結婚生活がうまく行かずに家を飛び出し、実家の両親に直談判をしにいきます。理不尽とも言える原田の冷淡さを必死で訴えるお関でしたが、封建的な時代ゆえに、父親になだめられて家に帰ることになります。その帰り道、お関はかつての恋人録之助と再会します。しかし録之助はお関が嫁いだ後に自暴自棄になり、実家も嫁も子供も捨てて放蕩生活を送っていたのでした。

現代なら「かつて両思いだった二人が再会する」という展開があれば、そこから恋が再燃しそうなものですが、本作には一切そういった展開はありません。ただ淡々とお関の辛い境遇、録之助の悲惨な現在が描かれ、二人は再び離れ離れになります。ここには当時も色濃く残る封建主義が反映されています。

本作の読みどころは文語調独特のリズム感です。本来文語調は読みにくいはずですが、このリズムのおかげでするすると文章の内容が頭に入ってきて、お関や録之助の悲哀も鮮明にイメージできます。今の時代の言葉にはない、「日本語の美しさ」を堪能できる作品です。

<田鎖准教授評>
この作品は一方的にお関を悲劇のヒロインとしたものではありません。お関の悲しみは録之助の不幸、あるいはその録之助の犠牲になった妻や子の不幸によって相対化されているからです。

またこの作品のタイトルがなぜに「十三夜」になっているのかについても思いを巡らせてみましょう。十五夜の満月を愛でる風習は中国と日本の両方にあるものの、やや欠けた十三夜の月を愛でる風習は日本にしかありません。日本人は十三夜の月の欠けたところをも一つの味わいだと考え、古来より賞美してきました。

この意味で本作における十三夜の月は、男女の心のすれ違いに翻弄される登場人物の、人間らしい哀れな姿と対応しており、不幸を抱える人間存在をより高い視点から見守る役割を果たしているのです。

前田愛「十三夜の月」(『樋口一葉の世界』(1978年12月、平凡社)所収)参照

3 尾崎紅葉「金色夜叉」

初出:明治三十年一月~明治三十五年五月『読売新聞』

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主人公の間貫一とヒロインのお宮は結婚を約束した仲でした。しかしお宮は大富豪である富山唯継に言い寄られ、お宮とその両親は、富山との結婚を承諾してしまいます。そのことを知った貫一は、熱海の海岸で宮に本心を確かめます。ところがお宮が富山と結婚する気でいることが分かるやいなや、金に目がくらんだ娼婦であるとお宮を罵倒し、蹴り飛ばした挙句、その場を後にしてしまうのでした。

本作は6編から成っていますが、執筆中に紅葉が死去したために未完成作品となっています。のちの通俗小説にも通じる題材や、読者を夢中にさせる構成力もさることながら、現代ではまず見られない見事な「雅俗折衷体(がぞくせっちゅうたい)」が読めるのも本作の大きな魅力です。

「車は馳せ、景は移り、境は転じ、客は改まれど、貫一は易(かわ)らざる其の悒鬱(ゆううつ)を抱きて、遣る方無き五時間の独に倦み憊(つか)れつゝ、始て西那須野の駅に下車せり」という美文で有名な地の文があったかと思えば、「(前略)可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから(後略)」という会話文も混じっているのです。当時の日本ならではの美しい文章を堪能できるという意味でも、一読の価値ある作品です。

<田鎖准教授評>
当時の読者は、宮に裏切られた貫一の不幸に同情しました。また当初は宮の仕打ちに批判の目を向けながら、死をも厭わぬほどに思い詰める宮の様子が描かれるにつれて徐々に宮にも同情を寄せるようになり、二人の行く末をハラハラしながら追いかけたことでしょう。この読者を引き込む設定や展開の巧みさは見事です。実際、この作品は発表と同時に好評を博しました。

それにしても、この作品が好評を博するのは、男を裏切る女を非と見る、男性中心主義的な意識を当時の多くの読者が持っていたからでしょう。こうした意識は、かつてに比べて男女平等の意識が浸透しているはずの現在の我々の中にも、未だに残存しているのではないでしょうか。

男女関係をめぐる当時の読者の意識を知る上で、また、現在の我々の意識を考える上でも、面白い作品です。

4 泉鏡花「高野聖」

初出:明治三十三年二月『新小説』

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泉鏡花が作家としてのキャリアの地歩とした、幻想文学の名作です。高野山の旅の僧宗朝は、迷い込んだ山中で妖しくも美しい女性に出会います。彼女の傍らには異形の白痴がおり、彼女はこの白痴を世話していました。逗留するうちにこの女性に惹かれていく宗朝ですが、彼女は重大な秘密を抱えていたのでした。

本作の魅力は「重層的な物語世界」と「計算しつくされた文章」です。前者については田鎖准教授の評にお任せするとして、ここでは後者について触れておきましょう。

本作は宗朝が旅で知り合った「私」に、美しい女性との怪奇譚を話して聞かせるという構造になっています。そのため物語の大半は宗朝の口から、声に乗せて語られます。鏡花はこの構造をフルに活用して、まるで琵琶法師が歌うように宗朝に物語させるのです。これにより文章にリズムが生まれ、読む側は自然と物語に引き込まれていきます。

そこに鏡花の豊富な語彙力が加わるので、読者はいつのまにか「高野聖」の幻想世界に飲み込まれていくでしょう。幻想文学好きは絶対に読んで欲しい極上の作品です。

<田鎖准教授評>
山の中の小屋に住む美女は「南瓜の帯ほどな異形な者」とされるへその緒を持つ、幼児のような白痴と同棲し、世話をしています。これは、胎児と母との関係を彷彿とさせます。またこの女が水浴びをしていた場所は「切穴の形」をした洞窟めいた地形です。これは母胎を想像させます。これらを踏まえて、この女に母の一面を見出し、女のいる場所を、「胎内幻想的空間」と見ることができます。

また、語り部の宗朝は最後に迷いから覚めますが、その時に大雨が降っています。これは「胎内幻想的世界を通過することによって浄化され再生したことを意味する文字通りカタルシスの水」であり、「出産時の出水にも似ている」と解釈することもできます(後掲の東郷論文)。

鏡花が母を主題とした作品をよく書いたことは知られているが、この作品にもその主題が潜在していた可能性があるのです。この作品にはこの「胎内幻想的空間」に限らず、様々な描写に象徴的な意味が託されています。その意味を想像しながら読めば、より一層面白く読めるでしょう。

東郷克美「「高野聖」の水中夢」(『泉鏡花『高野聖』作品論集』(平成15年3月、クレス出版)所収)参照。

5 夏目漱石「三四郎」

初出:明治四十一年九月~十二月『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』

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夏目漱石の代表作にして『それから』『門』へと続く、前期三部作の一つです。熊本の高等学校を卒業して東京帝国大学に入学した三四郎は、偶然に知り合った美禰子という女性に惹かれていきます。美禰子は明治期の社会通念に縛られない都会的な女性です。彼女は一見三四郎の同郷の先輩野々宮に好意を寄せているようでもあり、三四郎に好意を持っているようでもあります。ウブな三四郎は美禰子の思わせぶりな態度に心揺さぶられていくのでした。

主人公の三四郎は、行きずりの女を抱くこともできない草食系男子です。にもかかわらず旧来の男尊女卑の価値観から逃れられない堅物でもあります。そんな調子なので、古い価値観から自由な女美禰子には翻弄される一方です。

漱石の描く人物は得てしてインテリで理屈っぽいところがありますが、三四郎においてはこの性質が自分を守るための殻にしか見えません。その様子が絶妙に滑稽で可愛らしいのです。私たちが抱える「ややこしい自我」を見事に描いてくれているように思います。

また三四郎が友人の与次郎とともに大学教授にしようと画策する広田先生も魅力的な人物です。彼は知性を持ちながらも三四郎のようにこじらせることはありません。何事にも鷹揚に対応し、思想や人生観についてもところどころにユーモアを織り込んできます。まさに大人のインテリと言えるでしょう。

終始明るいトーンで描かれる本作ですが、ところどころに漱石一流の文明批評も組み込まれています。明治の終わり近い日本の雰囲気を、青春のほろ苦さとともに味わえる作品です。

<田鎖准教授評>
三四郎は都会的な女性である美禰子に惹かれていました。しかし美禰子は全く別の男と突然に結婚することになります。まだ若く現実を知らなかった三四郎は、美禰子に選ばれることはなかったのです。

しかし美禰子の中に、三四郎に対する恋心が全くなかったわけではありません。というのも美禰子は、画家である原口にお願いをして、大学構内の「池の周囲」で三四郎と初めて出会った時の自らの姿を描いてもらっていたからです。

ただ、このように自らの肖像画を残そうとする行為は、自らの青春を画の中に封じ込め、追懐の対象とする行為、つまり自らの青春と決別して現実的に生きていくことを象徴する行為でもありました。

美禰子のこうした決別の意志が、いつ、いかにして生まれたのかは、作品に書かれてはいません。しかし書かれていないことによってかえって、容易には説明し難い、美禰子の混沌とした内面の葛藤を窺い知ることができます。不安定に揺れ動く若者の、華やかではあるが、切ない日々を描いた、青春小説です。

三好行雄「迷羊の群れ―「三四郎」夏目漱石」(『三好行雄著作集』第五巻(1993年2月、筑摩書房)所収)参照

6 谷崎潤一郎「刺青」

初出:明治四十三年十一月『新思潮』

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谷崎潤一郎の実質的な処女作とされる短編小説です。刺青師の清吉は、男の生き血に肥え太る「ほんたうの美しい女」を作り出したいという、人知れぬ願望を持っていました。そんな彼はある日、その素質を持っていると思える娘を見付けます。そして娘に自分の魂の証ともいうべき女郎蜘蛛の刺青を彫り込むことになるのですが、その過程で清吉は思いもよらない快楽を知るのでした。

本作の最大の魅力は、谷崎の筆力による豊穣な文章です。書き出しの「其れはまだ人々が『愚』と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった」という一文はあまりにも有名ですが、物語が始まってからの女体の表現や欲望の表現は圧倒的と言わざるを得ません。

マゾヒズムやサディズムに通じる部分が多い本作ですが、そういった嗜好に興味がない人も、下手をすると「目覚めて」しまうほどの文章です。ぜひ覚悟して読んでください。

<田鎖准教授評>
現在の言葉でいえば、清吉にはマゾヒスティックな願望があったといえそうです。ただこの作品では、マゾヒズムなどという言葉も定義も存在していない前近代の時代が設定されています。したがって作中において清吉は自らのその願望の意味するところを理解していたわけではなかったのです。

清吉本人すら理解していない、得体の知れない願望が少しずつ達成されていく緊張感のある展開こそが、本作の醍醐味です。

田鎖数馬「「刺青」の世界」(『谷崎潤一郎と芥川龍之介―「表現」の時代―』(2016年3月、翰林書房)所収)参照

7 森鷗外「高瀬舟」

初出:大正五年一月『中央公論』

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江戸時代の随筆集『翁草』の中の「流人の話」をもとにした短編小説。舞台は京都の罪人を送るために高瀬川を下る舟の上です。護送役を務める庄兵衛は、弟殺しの罪で島流しになった男喜助が、他の罪人とは違って妙に晴れ晴れしい顔をしていることを不審に思います。そこで庄兵衛は喜助に弟殺しについて尋ねるのですが、その中で彼は財産の多少と欲望の多寡、そして安楽死について考えることになります。

本作の魅力として、鷗外らしい重厚なテーマ選択が挙げられます。しかし筆者が何より魅力を感じたのは、鷗外の冷静かつ真に迫った文章でした。「高瀬舟」の文章は淡々としています。にもかかわらずこの作品からは確かな現実感が伝わってくるのです。特に喜助が弟を殺す場面では、血の匂いや弟の喉元から剃刀を引き抜く時の感触までが伝わってくるようです。

恥ずかしいことに筆者はこれまで「鷗外アレルギー」とも言えるほど、彼の作品を避けてきました。しかし今回この作品を読んだことをきっかけに、もう一度鷗外と向き合ってみようと思います。

<田鎖准教授評>
弟思いであった喜助には、弟が亡くなって嬉しいなどという感情は全くもって存在していません。しかし喜助は意識していなかったけれど、弟に自ら手をかけて安楽死させたことにより、結果としてこれまでの極貧生活では得られなかった安堵を得ることができるようなったのです。

こうした展開からこんな連想をすることもできます。つまり看護する者が、看護する負担から解放されたいがために安楽死を選択するという事態です。これは本来あってはならないことです。しかし喜助のような思考が存在するのであれば、現実において起こらないとも限らないのです。本作は安楽死をめぐるこうした極めて重い問題についても考えさせられる作品です。

三好行雄「「高瀬舟」―研究史と作品論」(『三好行雄著作集 第二巻』(1993年4月、筑摩書房)所収)参照

8 芥川龍之介「鼻」

初出:大正五年二月『新思潮』

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『宇治拾遺物語』巻第二「鼻長き僧の事」をもとにした芥川龍之介の短編小説です。かの夏目漱石はこの小説を読んで絶賛したのだそうです。

主人公は五六寸もある自らの長い鼻を気に病む僧侶、禅智内供。ある日、彼はこの鼻を短くすることに成功するのですが、予想に反して周囲の人々は以前よりも露骨に笑うようになります。この何でもないようなストーリーから芥川は、人間の他人の不幸や幸福に対する振る舞いについての批評を行なっています。

本作をオリジナルの「鼻長き僧の事」と比較すると、芥川がところどころにクスリとくるエピソードを加えていることがわかります。具体的には鼻のことを思い悩んだ内供が他の僧の鼻を観察しすぎて無意識につまんでしまうシーンや、鼻の治療を手伝わされた弟子があまりの荒療治に内供を気遣うシーンなどです。

代表作「羅生門」や、難解な作品が選ばれやすい芥川賞のイメージで芥川を捉えている人にとっては、新しい彼を知ることができる作品になるのではないでしょうか。

<田鎖准教授評>
内供には、鼻が短くなったのに、いまだに笑われる理由が分かりません。これを作者が代わって説明します。すなわちある人間が不幸を脱した時、それを見ている周囲の人々は何となく物足りなくなり、もう一度その人間を不幸に陥れたいという感情を持ってしまうというのです。周囲の人々はこうした感情から笑っていたのでした。

また、その笑いは理由や形の見えにくい陰湿な笑いでもありました。こうした陰湿な笑いが何故に生まれるのか、その笑いがいかに人間を傷つけるのか。人間の感情の一面を分析する、芥川の鋭い観察眼が光る作品です。

清水康次「『鼻』・『芋粥』論」(『芥川文学の方法と世界』(1994年4月、和泉書院)所収)参照

9 菊池寛「入れ札」

初出:大正十年二月『中央公論』

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文芸春秋社の創設者であり、通俗小説の大家である菊池寛の短編小説です。

江戸時代後期の侠客国定忠治は、11人の子分から自分に同伴させる3人を選ぶため、無記名投票を行います。しかし古株で忠治とは旧知の仲だった九郎助には人望がなく、ズルをして自分で書いた1票しかはいりませんでした。

しかしそれを知らない弟分の弥助は、一味が解散したあと九郎助のところに来て、票を入れたのは自分だと嘘を言ってきます。九郎助は弥助に激しい怒りを覚えますが、弥助の浅ましさを超える自分の卑しさに気づき、やるせない思いに打ちひしがれるのでした。

本作の前半では忠治を始めとする、眩しいまでの義侠心溢れる男たちの絆が描かれます。それと対比するかのように描かれるのが、義侠心のかけらもない、情けなくて卑しい九郎助や弥助です。特に九郎助の情けなさはピカイチです。情けなすぎて泣けてくるほどです。しかし筆者は彼に共感せざるを得ません。

なぜなら九郎助の行動や心情には、忠治たちのように男らしくなれない男のかっこ悪い部分が詰まっているからです。ラストのシーンでは思わず「頑張れ九郎助!頑張れ弥助!」と応援したくなりました。

<田鎖准教授評>
匿名による行為によって、公にはできない人間の卑しい感情や嘘はしばしばさらけ出されていきます。しかも匿名ゆえに、その卑しい感情や嘘をさらけ出した当人を問い詰めることもできないまま、ぶつけようのない怒りをくすぶらせるしかないことも往々にしてあります。こうした現在のネット社会の問題とも通じるテーマを、優れた構成力で読ませる作品です。

10 葉山嘉樹「淫売婦」

初出:大正十四年十一月『文芸戦線』

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船員の「私」は三人の労働者の男に取り囲まれ、60銭ほどの金を巻き上げられます。すると「私」は男たちにその引き換えとして、倉庫に横たわっていた瀕死の若い全裸の女を見せられます。「私」は女に対する性的興奮と、男たちに対する怒りという理性の間で葛藤に苦しんでいきます。

作者の葉山嘉樹は『蟹工船』などで知られる小林多喜二にも大いに影響を与えた人物です。そんなプロレタリア文学のパイオニアとされるこの葉山嘉樹を代表する短編小説がこの「淫売婦」だと言われています。

当時のプロレタリア(労働者階級)が抱えていた怒りや苦悩を、独特の衝動的な文体で描いた本作には、「ブラック企業」や「非正規雇用」などがニュースを賑わす現代に通じる部分が大いにあります。90年以上前の「社畜」のリアルを知ることができるとともに、彼らがどのような哲学を持っていたのかも垣間見える作品です。

<田鎖准教授評>
「私」は最終的に、資本家から搾り取られるだけ搾り取られる労働者の絶望的な状況を知り、涙を流します。しかし当初の「私」は、一歩間違えれば淫売婦とされるその女と性交渉を行おうとする感情に、従いかねない状態でした。

なぜなら「私」は若い労働者で、何とか食べていけるだけのお金もあり、かつその女に性的欲求を感じていたからです。労働者は資本家に搾取される哀れな被害者でありながら、同時に別の人間から搾取する立場にもなりうる。このような解釈をさせる重層的な構成が、作品に奥行きを与えています。

11 太宰治『新釈諸国噺』

初版:昭和二十年一月、生活社

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井原西鶴の作品を翻案した十二の短編からなる作品集です。どの短編においても太宰の文章力と翻案力がキラリと光っており、70年以上も前の作品とは思えない新鮮さを保っています。

例えば「貧の意地」の主人公は、うだつの全く上がらない原田内助という男です。冒頭の内助のダメっぷりを描く一連の文章は、本来一文にしては長すぎるはずですが、これをさらりと面白く読ませるあたりは、さすが太宰といえるでしょう。筆致で言えば現代作家の森見登美彦が似ているかもしれません。

また何をさせてもダメな内助ですが、「貧の意地」だけはしっかり持っています。彼は自分に転がり込んだ得を卑しく手中に納めるのではなく、しっかり筋を通して受け取らないのです。この辺りは太宰の人生観、人間観が反映されています。

太宰好きはもちろん、太宰をまだ読んだことのない人にも是非読んで欲しい一冊です。

<田鎖准教授評>
西鶴の『本朝二十不孝』巻五の三「無用の力自慢」では、才兵衛の親不孝を戒める内容となっています。それに対して太宰の「大力」では、才兵衛に面と向かって意見を述べることなく適切に才兵衛を育てなかった、両親や師匠の責任がより強調されるようになります。本音と建前を使い分ける大人の世界を理解できず、その犠牲になる才兵衛のような人間を描くのはいかにも太宰的な方法です。

西鶴の作品世界を踏襲しながら、よく読めばがらりとその世界が反転されているのです。そのように反転させる手際は見事であり、抜群の面白さを持った作品集だといえます。あわせて是非とも西鶴作品も読みたくなるでしょう。

木村小夜『太宰治 翻案作品論』(2001年2月、和泉書院)参照

12 三島由起夫『近代能楽集』

初版:昭和三十一年四月、新潮社

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『近代能楽集』は能の謡曲を下敷きにして、三島の手により大きく書き換えた九編の戯曲からなる戯曲集です。太宰の『新釈諸国噺』と同様、オリジナルと翻案との違いにより、純粋な創作よりもはっきりと三島の思想や価値観を知ることができる格好のテキストとなっています。

能には現実という単一の世界で終始する物語を描く「現在能」と、霊的な存在が主人公となり、時空間を自在に移動して複数の世界を股にかける「夢幻能」があります。さらにここにシテ(主役)が前後半で違う形相をとる「複式能」が重なると「複式夢幻能」と呼ばれます。『近代能楽集』の中で最も有名な「卒塔婆小町」はこの複式夢幻能の作品です。

三島はこの能の構造を熟知したうえで近代劇に昇華させ、見事世界的な評価を得ました。本戯曲集は単独で読むだけでも十分三島の詩的センスに触れられます。ただ原案の「卒塔婆小町」も、三島の「卒塔婆小町」も今でも実際に上演されているため、気に入った人は生で観ることをおすすめします。「何もないからこそ無限に存在する」という能が引き起こす時空間的パラドックスをぜひ体感してみてください。

<田鎖准教授評>
例えば三島の「卒塔婆小町」では、小野小町のなれの果てである、九十九歳の「醒めた認識者」として生きる老婆と、深草の少将に該当するロマン主義者の詩人が登場します。老婆に若き日の小町の幻影を見た詩人は、「私を美しいといえば死ぬ」と老婆に忠告されていたにもかかわらず、「君は美しい」と述べて自滅していきます。

三島はエッセー「卒塔婆小町覚書」の中で、「九十九歳の小町のやうな不屈の永劫の青春を志すことが、芸術家たるの道」であると述べていました。ただし、この作品では死の間際の詩人の悲劇的な姿もまた、老婆に動揺を与えるほどの力を有しています。「醒めた認識者」として生き続ける老婆を芸術家の理想としながらも、一瞬の美に殉ずる詩人の姿にも共鳴する。ここに、三島の思想の一端が表れているのです

謡曲の世界を支えに、三島の思想を色濃く投影した世界に仕立て上げている点に、この作品集の魅力があります。

田村景子「認識者と実践者、その葛藤の帰趨 「卒塔婆小町」論」(『三島由起夫と能楽 『近代能楽集』、または堕地獄者のパラダイス』(2012年11月、勉誠出版)所収)参照

13 安部公房『燃えつきた地図』

初版:昭和四十二年九月、新潮社

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T興信所に勤める探偵の「ぼく」は、失踪した根室洋の行方を捜索するものの、一向に手掛かりを摑むことができません。むしろ「ぼく」は追跡を進めるほどに、根室の手がかりを失い、いつの間にか自分の存在を失う不安に取り憑かれていきます。

安部公房の『箱男』『砂の女』といった作品には、箱を被って生活する男や砂に埋まった家に住む女といった奇抜な設定があります。一方で本作の舞台は私たちが普段生活している大都会で、別段奇抜なところはありません。しかし読者は読み進めるにつれて、言い知れぬ不安に襲われていきます。

なぜならいつまでたっても件の「根室洋」は見つかりませんし、同化していたはずの主人公が徐々に「自分の存在」を失い始めるからです。不条理な世界の中に放り捨てられるこの感覚は、安部文学の醍醐味と言っていいかもしれません。

また本作は奇妙な登場人物たちも魅力の一つです。居酒屋でゴキブリを肴に酒を飲む男や、図書館で密かに本の写真を切り抜いている女子学生は特に筆者のお気に入りです。この二人とはじっくり話をしてみたいですね。

「普通の小説」に飽きた人には是非とも読んで欲しい昭和年代の傑作です。

<田鎖准教授評>
T興信所に勤める探偵の「ぼく」は、失踪した根室洋の行方を捜索する過程で、自分の存在を失う不安に取り憑かれていきます。何かを追い求めるうちに、自分を失ってしまうこうした不安は、作品現在の時代の雰囲気とも関係があることが示唆されています。そのことは、現在行方不明者が八万人以上もいることを報じた当時の実際の新聞記事の写真が、この作品に載せられていたことから確認できます。

高度経済成長期の昭和四十年代において、やみくもに成長が追い求められていましたが、その中で自らの居場所や存在意義を見出せない人間も実際に数多くいたのです。こうした時代に生きる都会人の孤独と不安とが、「ぼく」やその他の登場人物の姿を通して、強い実在感をもって描き出されている点に、本作の妙味があります。

14 水村美苗「続明暗」

初出:昭和六十三年四月~平成二年四月『季刊思潮』

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本作は小説家水村美苗のデビュー作にして代表作です。夏目漱石が大正五年に発表し、漱石の死のために中絶となった「明暗」の続編という形で発表されました。

漱石の「明暗」では主人公である津田が、会社の上司の妻である吉川夫人に、かつての恋人であり現在は人妻である清子が近くの温泉宿に滞在しているから会いに行くよう促され、その温泉宿で清子と遭遇したところで終わっています。これを受けて、「続明暗」では、津田と清子とが温泉宿で遭遇し、言葉を交わした後で、各々の部屋に戻るところから描かれています。

本作は漱石の様々な作品からの引用を多用することで作品を構築しています。漱石の作品を読み尽くしている人ならば、引用を見つけるたびにニヤリとできるかもしれません。しかしそうでない読者はただ目の前の文章を鵜呑みにし、そして巧みな物語構成に没頭していきます(筆者はこちら側の読者でした)。

「新潮文庫版あとがき」で作者自身が書いているように、「続明暗」が漱石が書いたものなのか否か、もっと言えば「明暗」を漱石が書いたのかどうかさえどうでもよくなり、目の前の物語にのめり込んでしまいます。

しかし誤解を恐れず言えば本作は「超一流のカットアンドペースト」なのです。したがって作品の成立を知ったとき、読者は「創作とは?」というメタな問題を考えざるを得ません。物語に没頭するほどの力を持ちながら、作品世界の外にまで解釈の余地を残している。この奥深さも本作の大きな魅力でしょう。

<田鎖准教授評>
この作品は、漱石が「明暗」の続きを執筆したのではないかと錯覚するほどに、漱石作品に似ていると感じられます。そのように感じられるのは、実はこの作品が「明暗」だけではない、様々な漱石作品からの数多くの引用によって作られたものであったからです。そのために、実際に漱石が執筆した「明暗」の続きを読んだ気にさせられるのです。

しかしこの作品を読む楽しさはそれだけに留まりません。様々な漱石作品を密かに引用しつつも、漱石作品の原文の意味合いと微妙に食い違う描写にしているところもあるからです。その食い違いに着目しながら、この作品を読むと、「続明暗」のテーマが浮かび上がり、別の楽しさを味わうことができます。

15 平野啓一郎「空白を満たしなさい」

初出:平成二十三年~二十四年『モーニング』

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三年前に自殺したにもかかわらず、生き返った主人公土屋徹生は、自殺した理由を思い出すことができず、その事実を受け入れることができません。そんな折、徹生は池端という人物に会い、分人という考えを教えてもらいます。本作はこの「分人」という思想を巡り、徹生が自分の「死因」を確かめる物語です。

本作は作家本人が「文学にまったく興味がない人にも楽しんでもらう」(平野啓一郎 公式ブログより)ために書いたとしているように、文学的素養がなくても十分楽しめる読みやすさを備えています。「分人主義」という作家独自の思想がテーマになっているものの、ストーリー自体はエンタメ色が強く、一気読みできるほど面白い作品です。構成だけでなく、情景をありありと想像できる描写力にも面白く読ませる力があります。

ただし最後まで読み終わると、私たちは「自分の生き方」という深遠なテーマに立ち向かわざるを得なくなります。それほどまでにクライマックスは読者の心情だけでなく、思想にも訴えかけてくるのです。

この作品で「分人主義」についてもっと知りたいという人は、平野啓一郎著『私とは何か: 「個人」から「分人」へ』もおすすめです。

<田鎖准教授評>
この作品では分人の思想について詳しく記されています。分人とは、対人関係ごとに生まれる様々な自分のことです。この分人の考えに従えば、たった一つの自分など存在しません。例えば妻との分人が十分の三、子供との分人が十分の三、お隣さんとの分人が十分の一という形で、自らとの関係の重要度に応じた比率で異なる自分が作られていくことになります。そして、そのそれぞれが本当の自分であるとされています。

徹生はこの分人という考えを知らず、個人は分けられない一人の人間であると信じていました。そして自分がそれゆえに自殺することになったとやがて気付くようになります。平野の分人の思想を投影した作品で、多様化する現代社会の中でいかにして生きるべきかについて、深く考えさせられます。

まだ読みたい、もっと読みたい日本近代文学

日本的な物語の面白さや日本語の美しさ、母国語だからこそ描き出せる新鮮な世界観。今回田鎖准教授にリストアップしてもらった作品群には日本近代文学ならではの魅力がぎっしり詰まっています。しかもどれもが超一級品ばかり。これはまさに読まなきゃ損です。

作品を一つ読めばもう一つ読みたくなり、もう一つ読めばもっと読みたくなるはずです。これをきっかけに、あなたも日本近代文学の魅力にどっぷり浸かってみませんか?

[田鎖数馬准教授:略歴] 1976年7月生まれ。
京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。
現在、高知大学人文社会科学部准教授。主な業績には『谷崎潤一郎と芥川龍之介−「表現の時代」−』(翰林書房)、『谷崎潤一郎全集』第4巻「解題」(中央公論社)、『芥川龍之介ハンドブック』「少年」(縣書房)など。
[文]鈴木 直人 [編集]サムライト編集部